パラオ共和国
2011年 05月 28日
突然ですけど。パラオについて。。。
1.面積
488平方キロメートル(屋久島とほぼ同じ)
ちなみに、陸前高田市は、232.29km²
2.人口
20,397人(2009年、世界銀行)
ちなみに、陸前高田市の21,771人(23.4.24 18時現在)
3.言語
パラオ語、英語
ちなみに、戦時中は、日本語教育も行われたため、ご老人の中には日本語を話せる人もいる。
また、日本人も300人ほど住んでいるらしい。
4.略史
1500年代 スペイン人がミクロネシアの島々を発見。
1914年 第一次世界大戦始まる。日本はパラオを含む独領ミクロネシア(南洋群島)を占領。
1920年 国際連盟から日本の(パラオを含む)ミクロネシア(南洋群島)委任統治が認められる。
1947年 国連の太平洋信託統治領として米国の統治始まる。
1978年 住民投票の結果、パラオはミクロネシア地域の統一国家からの離脱を決定。
1994年10月1日 コンパクト(注)発効(2044年まで有効)、独立。
5.陸前高田市とパラオは友好関係にある。
私の初海外旅行地は、このパラオですが、その年、陸前高田市とパラオは姉妹都市宣言したのではなかったか。。。というのは、陸前高田市のサイトからは資料が見当たらないから。。。
6.陸前高田市にあった「貝と海のミュジアム」とパラオの博物館との間で交流があったと聴いた事がある。
もっとも、パラオの博物館で貝は販売されていましたけどね。
さて、私がパラオに行ったのは。。。
1994年11月23日頃で、会社の社員旅行でした。クリスマスの前だったですね。
社員の中におばさんがパラオに住んでいるとのことで、そこを頼っての旅行でした。
その頃は、まだ直行便がなく、成田⇒グアム(乗り換え)パラオ、だったように思えます。
時差はほとんどなかったんですが、確か、一日がかりだったように思います。
帰りは、パラオ⇒ヤップ⇒グアム(乗り換え)⇒???⇒成田。で飛び石のように帰った記憶があります。
第一印象。海がきれい。30mほど下まで見えました。1m以上の大きな魚が海底付近を優雅に泳いでいるすがたを船上から見れましたから。
静かなところでした。街中はそうでもありませんが、一歩、郊外にでると、特に、内海のようになっているところは、まるで湖畔にいるようでした。
ここは、ダイビングのメッカと言われるほどの観光地でしたけど、私たちはあくまでも観光で、おそらく、観光だけで行った日本人は私たちが最初で最後だったんではないでしょうか。
ホテルは日航ホテルでした。着いたのは夜遅くで、夕飯の時刻はとっくに過ぎていました。何か食べさせて欲しいと言いましたが、何もないと言われ、それでもお願いして出てきたいのは札幌ラーメンでした。興ざめでした。まずかったです。
翌朝、ホテルの食事があまりよくなかったと記憶しています。すぐに、レンタカーを2台借りました。これは正解でした。以降、食事は、町まで繰り出して、現地の人と同じものを食べました。みんな愛嬌があって、こちらに興味を持っていたようでした。私も片言ながら、英語でおしゃべりしたようにも思えます。
街中には、日本の車が多く走っていて、中には、「〇〇自動車学校」と書かれているものや、ドアのない車が多く走っていました。
夜は、行ってはいけないという地域以外は、大丈夫でした。
道端にバスケット場が多くあって、みんなでバスケットボールをやっていました。
小さい島(町)と大きな島があります。大きな島には、原住民のような方が小屋で生活していたように記憶しておりますが、街中とちがって、とても懐かしさを覚えたのはなぜだったのでしょうか。ゼロ戦の残骸が、今でもあり、一気に、ここが戦場であったことに心が痛みました。
ホテルの売店にいたおじさんとは、いろんなおしゃべりをしました。中国人の方でしたが、日本語が上手で、私が岩手県出身だと言うと、昔、大船渡と貿易の仕事で行ったことがある、とのことで、盛り上がりました。
オプショナルツアーがあって。。。
ひとつは、ヨットのサンセットクルージング。
これはお勧めでしょう。真っ暗の中で、夜空に人工衛星が飛んでいくのが見えました。
シュノーケリングしながら島伝いに渡っていくのがありました。
私は泳げないので、海には入りませんでしたが、水の流れが非常に速く、怖い思いをしました。
その前後、日本人が流されて亡くなったという事故がありましたが、それはうなずけました。私も、ちょっとだけ、船のはしごから、海に入ろうとしたときに、水流で、船の下に引き込まれそうになりました。怖かったです。
途中、島に渡っての、バーベキューは、ハエが凄くって、閉口しました。
水上スキーをやったひとや、ダイビングの体験版をやった人もいました。私と友人は、どちらも嫌で、車で大きな方の島を走りました。
おばさんのところでは、とても歓迎されて、クリスマス前だったのに、クリスマスのようなご馳走をいただきました。あまり食べられなかったんだよね。いっぱい出てきたんだけど。
後で、大丈夫だったのでしょうか。心配でした。
おばさんは、かろうじて日本語を覚えている、という感じでした。家族みなに愛されているのはひと目でわかりました。
日本がとても懐かしいと言っていまして、日本の歌を聞かせて欲しいって頼まれて。花、とか、さくら、とか一緒に歌いました。涙を流しながら歌っていて、思わず、もらい泣きをしました。
そうそう、プライベートビーチを持っているホテルがあって、そこを一日だけ使わせて貰った事がありました。
私は泳げないから、仕方なく、砂浜の波打ち際に体育館座りしていたんだけど、気がついたら、結構大きな魚達が、私の足の周りをぐるぐる回っていたのよね。感激してしまって。。。
ホテルの売店で、シュノーケリングの一式を購入し、すぐに浜辺へ。
本当、子供の水浴びみたいな水深(ひざぐらい)のところで、水に浮いていましたね。それだけで、十分でした。私には。たった、その水深なのに、いっぱいの魚が私を楽しませてくれました。
呼吸さえできれば、自分も水に浮くって知ったしね。満足でした。
一週間の旅行でした。その間だけで、人間忘れそうでした。
でも、また行きたい。行って、現地の人とおしゃべりしたい。
1.面積
488平方キロメートル(屋久島とほぼ同じ)
ちなみに、陸前高田市は、232.29km²
2.人口
20,397人(2009年、世界銀行)
ちなみに、陸前高田市の21,771人(23.4.24 18時現在)
3.言語
パラオ語、英語
ちなみに、戦時中は、日本語教育も行われたため、ご老人の中には日本語を話せる人もいる。
また、日本人も300人ほど住んでいるらしい。
4.略史
1500年代 スペイン人がミクロネシアの島々を発見。
1914年 第一次世界大戦始まる。日本はパラオを含む独領ミクロネシア(南洋群島)を占領。
1920年 国際連盟から日本の(パラオを含む)ミクロネシア(南洋群島)委任統治が認められる。
1947年 国連の太平洋信託統治領として米国の統治始まる。
1978年 住民投票の結果、パラオはミクロネシア地域の統一国家からの離脱を決定。
1994年10月1日 コンパクト(注)発効(2044年まで有効)、独立。
5.陸前高田市とパラオは友好関係にある。
私の初海外旅行地は、このパラオですが、その年、陸前高田市とパラオは姉妹都市宣言したのではなかったか。。。というのは、陸前高田市のサイトからは資料が見当たらないから。。。
6.陸前高田市にあった「貝と海のミュジアム」とパラオの博物館との間で交流があったと聴いた事がある。
もっとも、パラオの博物館で貝は販売されていましたけどね。
さて、私がパラオに行ったのは。。。
1994年11月23日頃で、会社の社員旅行でした。クリスマスの前だったですね。
社員の中におばさんがパラオに住んでいるとのことで、そこを頼っての旅行でした。
その頃は、まだ直行便がなく、成田⇒グアム(乗り換え)パラオ、だったように思えます。
時差はほとんどなかったんですが、確か、一日がかりだったように思います。
帰りは、パラオ⇒ヤップ⇒グアム(乗り換え)⇒???⇒成田。で飛び石のように帰った記憶があります。
第一印象。海がきれい。30mほど下まで見えました。1m以上の大きな魚が海底付近を優雅に泳いでいるすがたを船上から見れましたから。
静かなところでした。街中はそうでもありませんが、一歩、郊外にでると、特に、内海のようになっているところは、まるで湖畔にいるようでした。
ここは、ダイビングのメッカと言われるほどの観光地でしたけど、私たちはあくまでも観光で、おそらく、観光だけで行った日本人は私たちが最初で最後だったんではないでしょうか。
ホテルは日航ホテルでした。着いたのは夜遅くで、夕飯の時刻はとっくに過ぎていました。何か食べさせて欲しいと言いましたが、何もないと言われ、それでもお願いして出てきたいのは札幌ラーメンでした。興ざめでした。まずかったです。
翌朝、ホテルの食事があまりよくなかったと記憶しています。すぐに、レンタカーを2台借りました。これは正解でした。以降、食事は、町まで繰り出して、現地の人と同じものを食べました。みんな愛嬌があって、こちらに興味を持っていたようでした。私も片言ながら、英語でおしゃべりしたようにも思えます。
街中には、日本の車が多く走っていて、中には、「〇〇自動車学校」と書かれているものや、ドアのない車が多く走っていました。
夜は、行ってはいけないという地域以外は、大丈夫でした。
道端にバスケット場が多くあって、みんなでバスケットボールをやっていました。
小さい島(町)と大きな島があります。大きな島には、原住民のような方が小屋で生活していたように記憶しておりますが、街中とちがって、とても懐かしさを覚えたのはなぜだったのでしょうか。ゼロ戦の残骸が、今でもあり、一気に、ここが戦場であったことに心が痛みました。
ホテルの売店にいたおじさんとは、いろんなおしゃべりをしました。中国人の方でしたが、日本語が上手で、私が岩手県出身だと言うと、昔、大船渡と貿易の仕事で行ったことがある、とのことで、盛り上がりました。
オプショナルツアーがあって。。。
ひとつは、ヨットのサンセットクルージング。
これはお勧めでしょう。真っ暗の中で、夜空に人工衛星が飛んでいくのが見えました。
シュノーケリングしながら島伝いに渡っていくのがありました。
私は泳げないので、海には入りませんでしたが、水の流れが非常に速く、怖い思いをしました。
その前後、日本人が流されて亡くなったという事故がありましたが、それはうなずけました。私も、ちょっとだけ、船のはしごから、海に入ろうとしたときに、水流で、船の下に引き込まれそうになりました。怖かったです。
途中、島に渡っての、バーベキューは、ハエが凄くって、閉口しました。
水上スキーをやったひとや、ダイビングの体験版をやった人もいました。私と友人は、どちらも嫌で、車で大きな方の島を走りました。
おばさんのところでは、とても歓迎されて、クリスマス前だったのに、クリスマスのようなご馳走をいただきました。あまり食べられなかったんだよね。いっぱい出てきたんだけど。
後で、大丈夫だったのでしょうか。心配でした。
おばさんは、かろうじて日本語を覚えている、という感じでした。家族みなに愛されているのはひと目でわかりました。
日本がとても懐かしいと言っていまして、日本の歌を聞かせて欲しいって頼まれて。花、とか、さくら、とか一緒に歌いました。涙を流しながら歌っていて、思わず、もらい泣きをしました。
そうそう、プライベートビーチを持っているホテルがあって、そこを一日だけ使わせて貰った事がありました。
私は泳げないから、仕方なく、砂浜の波打ち際に体育館座りしていたんだけど、気がついたら、結構大きな魚達が、私の足の周りをぐるぐる回っていたのよね。感激してしまって。。。
ホテルの売店で、シュノーケリングの一式を購入し、すぐに浜辺へ。
本当、子供の水浴びみたいな水深(ひざぐらい)のところで、水に浮いていましたね。それだけで、十分でした。私には。たった、その水深なのに、いっぱいの魚が私を楽しませてくれました。
呼吸さえできれば、自分も水に浮くって知ったしね。満足でした。
一週間の旅行でした。その間だけで、人間忘れそうでした。
でも、また行きたい。行って、現地の人とおしゃべりしたい。
by ja1toep1 | 2011-05-28 17:15 | 日記 | Comments(0)